【三題噺】「ネズミ」 「山羊飼い」 「網」

 冬の晴れた昼下がり、男は逃げ出した山羊を探して一人で山道を歩いていた。気温もそれほど低くはなく、じっとしていない限りは快適に過ごせそうな気候だが、夕方から雪が降るとラジオのニュースで言っていたので、それまでには帰れるようにと心持ち歩調を速めながら周囲に気を配る。

 

 今日は年の瀬だということも家を出る前にラジオから聞こえたことを思い出し、少しだけ晩餐の献立を豪華にしようか。とっておきのウイスキーを少しだけ出そうか。などと浮かれたことを考えながらも周囲を見回す視線は鋭い。

 

 男が探している山羊は姿かたちを変えることができる。山羊たちは普段は男の住む山々に囲まれた牧場で静かに暮らしているが、時々こうして何を思うのかこっそり牧場から抜け出して人里に悪さをしに行ってしまう。山羊は一度姿を変えると頻繁には姿を変えられず、牧場を抜け出せたことから大きさは小型で移動速度も速くないだろうということもあり、男には幾分か気持ちに余裕があった。この辺りは植物しか生えておらず、動くものは男くらいなものなので山羊を探すのはそう困難ではなかった。

 

 もう長いこと山羊飼いとして山奥の牧場で暮らしているが、男は山羊について詳しく知らない。山羊たちの特徴や捕まえ方について説明を受けた後は、定期的に男の食料を持ってくる業者としか会ったことがない。

 男の飼っている山羊が世間一般でいうヤギと違うこと、テレビや本などの視覚的な娯楽が一切禁止されていることから、自分がかなり訳ありな仕事をしていることはわかっているが、自分の衣食住が保証され、遠く離れた家族が裕福に暮らすには十分な賃金が支払われているであろうことから別段不満もなく暮らしている。

 

 ぼんやり考えながら歩いているうちに家からかなり遠くまで歩いてきてしまった。少しづつ空が陰り出し、遠くの方に白くてひらひらしたものが待っているのが見え始めた。山羊を見つけて急いで帰らなければ。

 山道を抜け、男が管理する敷地の出口に着いた。外に出るためにはここを通る必要があり、幸い境界線を越えた跡が見られなかったので男は出口の脇に作ったベンチが一つ置いてあるだけの休憩所に入り、手に持っていた山羊を捕まえるための網を壁に立てかけ、どっかりとベンチに腰を下ろして雪の降り始めた山々を見ながら山羊が来るのを待つことにした。

 

 今回山羊は何に姿を変えて逃げ出したのだろうか。男はふと思った。山羊が姿を変えるためにはその動物の名前と、近くの人間がその動物に対する姿かたちについての具体的にイメージをする必要がある。さらに牧場から出られるような小さい動物になるとすると、めったなことがない限り条件がそろうことはないのだ。

 

 雪が降り積もり始め、白い絨毯はやがて周囲から音を奪っていく。辺りは薄暗くなり始め、念のために持ってきたランタンを点けようかどうか悩んでいる男の耳は、聞こえるか聞こえないかの小さい音を拾い上げた。

 網を手に取り、休憩所から出て自分が来た道に目を凝らす。そろそろと心なしか申し訳なさそうに近づいてきたものに目を落とし、男は

「なるほど、君は1年の先取りをした訳か」

 と苦笑を溢しながら白くて小さなネズミを網ですくい上げ、腰に付けたポーチに優しくしまい込んでから家路についた。